宮城県内の住宅被害は全壊1377戸、半壊6123戸であり、その内仙台市では全壊715戸、半壊3271戸と、県内の50%を占めるほどの局地地震であった。それら全・半壊被害の多くは、宅地造成などの開発地域や軟弱地盤地域に集中した。
市東南部の田園地帯である六郷・七郷地区や遠見塚地区は、地下水の浅い軟弱地盤地帯であったことから被害が出た。長町・郡山地区もそうした地盤に加え住宅の老朽化が被害を大きくした。 そして旧市街地周辺部の緑ヶ丘団地・北根字一念坊等の地滑りによる宅地被害、鶴ケ谷や旭ケ丘地区など地盤の不同沈下による被害などが目立った。
| 災害発生当時 | 現在 |
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それらは、宅地造成法の規制以前の昭和30年代からスプロール的に造成を行い、その為山を削り沢地に深く盛り土をした新興住宅団地に被害が集中し、地滑りによる地割れやよう壁の崩壊により住宅が崩壊したケースが多く見られた。その他の建物被害では、市東部の卸商団地や苦竹地区などの従来から地盤沈下現象があった場所でビルの倒壊や全壊が相次ぎ鉄筋コンクリート建造物の最大の被害地であった。
地震での死者は宮城県内で27人、仙台市内では13人であり、その内県内で19人、
市内で9人がブロック塀や門柱などの倒壊や土砂崩れにより屋外で死亡している、
実に全体の70%を占めている、ブロック塀や門柱の被害が相次いだ事は
今後に課題を残すことになった。
この地震では比較的に都市部であったことからライフラインの被害もあった。特にひどかったのが都市ガスで、これこそマイホーム時代の主役であっただけに、市民は卓上コンロ等で急場をしのぎ全面復旧まで約一ヶ月を要した。上水道は断水戸数7000戸で全面復旧まで8日間を要した。水とガスが不通になったことでお風呂に入れないと言う問題が起こり市内にあるお風呂屋には連日長蛇の列ができ整理券を配るところも出てきた。
宮城県沖地震は仙台市を中心とした都市部であったことで、それらの持つ快適さが、地震により耐えきれなかった点が特徴的であった。
新潟地震で最も被害のあった新潟県では全壊1448戸、半壊5376戸、焼失家屋280戸となっている。 この地震で注目を集めた点は石油精油所の爆発火災による類焼で付近家屋約270戸が焼失し、7月1日17時に鎮火した。ほかに川岸町の4階建てアパートの倒壊や、出来て間もない昭和大橋の倒壊などがあった。しかし新潟県内の被害に留まらず他府県にも被害を出している。
新潟県の北に位置する山形県庄内地方にも大きな被害を与えた。 山形県内での全壊486戸、半壊1186戸、死者9人(鶴岡市5人、酒田市1人、三川村1人、温海町2人)であり、新潟地震で震度6と最も揺れた鶴岡市では市内の幼稚園が全壊し保母・園児十数名が生き埋め園児3人は帰らぬ事となった。
酒田市では唯一の犠牲者であった中学の女生徒は、昼休みで校庭に居たときに地震に遭遇した学校の指定避難場所である校庭脇の最上川堤防に避難する際地震による地割れに落ちて、その直後地下水が噴き出し辺り一面が30センチほど浸水した。生徒が地割れに落ちたと言うことで先生達が探すと泥水の中で髪の毛にあたったと云うことであった。
当時鶴岡市内の銀行に勤めていた人の話では、 「丁度、地震の一昨年前に銀行を新築して鉄筋コンクリートにしていた。地震で大きく揺れて、その日のうちに工事を行った業者が酒田からすっ飛んできて調べてみると、壁と塀の間が数十センチ開いていたが、業者の人は建物が大きく揺れてくれたから崩れなかったんですよと言って隙間を埋めてくれた事を今でも思い出す」と言っていた。
鶴岡市大山の小学校では、地震の3日前に災害避難訓練を行ったばかりで断線のため校内放送が不能になりながらも担任の先生の誘導に従い1人のケガもなく避難を完了できた。 他の学校では先生に生徒がしがみつき誘導どころでは無かったなど日頃の訓練が実らなかったところもあった。
秋田県の被害では本荘市を中心に震度が3ないし4を示し、全壊13戸、半壊212戸、死者5人であった。新潟地震に先立つ昭和39年5月7日に男鹿半島沖に発生した震度4の地震で被害を受けていた。中でも八郎潟干拓地の堤防が数キロにわたって沈下や亀裂を生じたが、これが復旧しないうちに追い打ちをかけるように新潟地震に見舞われて被害を大きくした。
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災害OUT・SIDE 正村 圭史郎