過去二十年間、私はNGOや政府自信による非常に感情的な論旨を駆使して、さまざまな生物種についての世論を動かそうと試みている。 感傷的な論陣が成功するのは、特に事実に基づく情報が少ない場合である。 このような場合に、相手の国は何であれ、人種的偏見とか、文化の違い、また未知なものへの怖れという要素が加われば感情論にとっては、おあつらえ向きの舞台ができ上がる。
前述のように、私でさえも、こうゆう感情論には弱かった。 1970年代の半ばに、シドニーで私は国立科学産業研究所(CSIRO)の水産部に所属していたが、その頃丁度私の上司でもあった、K.ラドウエー・アレン博士が議長で私たちの所内でIWCの、ある会議が開かれることになった。 会議が開かれる前に、研究所の門前にグリンピースの一群が集まり、「鯨を救おう」と書かれたのぼりを掲げ、口々に「鯨を救おう」と叫んでいた。 その時私は、彼等の熱意に動かされ、彼等を支持したい気持ちに駆られた。 鯨が地球上から消えることを喜ぶものはいないからである。 しかし、彼等の論旨が、いい加減であるということが判った。 先ず、彼等の論旨の基本には、鯨は全て同じであるという信念があった。 実際彼等の中に、鯨にも色々な種があることを知っているものは少なかった。
巨大な鯨種であるシロナガスは確かに枯渇しており、保護を必要とした。 しかし、その一方比較的小型のミンク鯨などは、豊富なばかりでなく、増加している傾向があり、その理由の一つは、恐らくシロナガスのような大型鯨種が枯渇したからである。 ミンクもシロナガスも同じ餌を競合して食べているのである。 このように、どんな鯨種も同じ生き物であると考えることは、余りにも単純な考え方である。 類推的にいえば、同じ大型の哺乳類で陸に棲むマウンテンゴリラは枯渇しており、彼等を保護することは、人類にとっても重要であるのに、マウンテンゴリラの保護を訴えるものは殆どいない。 むしろ、人間が彼等の生息を脅かしている程である。 私がルワンダの山岳地方を訪れた時、巨大なシルバーバックゴリラに遭遇した。 私は連れの国立公園のレインジャーに「銃があってよかったね」と言ったが、レインジャーの答えは、「銃は私たちを守るのではなくて、ゴリラを密猟者から守る為に持っているのです」というものであった。
グリンピースがしばしば使う論旨に、「鯨は大きく崇高な生物であるから救わなくてはならない」というものがある。 確かにそうであろう。 種の保存を考慮せずに捕獲するのは無責任である。 捕獲は、その種の福祉を考えてから行うべきである。 しかし、鯨の健康というものは、自然の法によって支配されていることも考えなくてはならない。 肉食性の種は、索餌習性により、先ず不健康なものを間引きし、次に老いたものと負傷したものを取り除く。 我々人間は、雑食性であり、我々の消化器官は栄養素であれば植物性も動物性のものも消化できるように造られている。 このような食性を考えると、人間は動物が死ぬのを待ってから食べるというのは、我々自身の種の生存にとって不健康である。 だから、我々は植物であれ、動物であれ、生きた栄養素を新鮮な状態で取り入れる。 だからといって、私は生物を無駄に殺生せよというのではない。 我々人間は地球の上で、他の生物資源のバランスをチェックしながら、管理出来るという特権を有する生物なのである。 だからこそ、人間は他の種の生存に劇的な影響力を持っているのである。
ある人々は鯨は高度に知能が高く人間のようなコミュニケーションの機能があるから殺してはいけない、という。 この論旨は、一見説得力があるように見えるが、事実より感情に基づくものである。 鯨は知能が高いとしても、陸上動物でいえば、犬、豚、チンパンジー以上のものではない。 コミュニケーションの機能から言えば、蜜蜂などは高度に洗練されたコミュニケーション機能を有している。 我々が食物として依存する牛、豚、山羊、鹿、兎、カモシカ、などは比較的知能が高い動物である。 特に豚は、人間と霊長猿との中間に位置する知能があると信じられている。
では、野生資源の枯渇を防ぐ為に、我々は野生の動物資源を食べずに、家畜のみを食べるべきであろうか?この質問に答えるには、我々は文化の相違という問題に立ち入る必要がある。 ある文化が慣れ親しんできた食物を他の全ての文化に共用すべきなのであろうか?
オーストラリア、ニュージーランド、米国、カナダ、その他のヨーロッパ諸国は肉食を大量に摂取し、家畜の牛、豚、鶏などに依存してきたが、日本やスカンジナビア諸国は、海産資源に依存してきた。 どちらの場合であっても、人間が資源に対して人道的な処置をとり、種の保存を脅かす行為をしないならば、問題とはならない。
反捕鯨の人々は、「私たちは鯨肉を食べない、だから貴方達も食べなくてよい」という議論をする。 このような議論は文化の違いを完全に無視している。 動物性食品でヒトの消化器官にのみ対応しているものはない。 このような議論をするならば、ヒンズー教徒がアメリカ人やオーストラリア人に「私たちは、牛を食べない、だから貴方達も食べるのをやめなさい」というかも知れない。
オーストラリアでは、我々は、食生活で牛肉や羊肉に大きく依存している。 我々は日常これらの動物の内蔵である舌、脳味噌、腎臓、肝臓、胃腸壁や血液を凝固したブラック・プディングなどを食べる。 他の文化圏の人々にとって、こういう食べ物は、考えるだけで、ぞーっとするのではなかろうか。 オーストラリアのアボリジン(先住民)は、カンガルー、蛇、ゴアナ(とかげ)、山芋、地虫、などを伝統食として食べている。 昔、移住してきたヨーロッパ系のオーストラリア人はこれらの食物を気味悪がっていたが、今では、高級レストランで、地虫の料理をメニューにいれている所さえある。 人間というものは、文化に慣れ親しむにつれ、より寛大になるのである。
最近では、日本人がより多くの肉を食べるようになってきたのと同じく、オーストラリア人がより多くの海産物を食べるようになった。 特に海老、蟹、ロブスター、イカなどを食べるようになった。 私が東アフリカで研究している頃、タンザニアでは、現地の人々は肉を沢山食べる経済的余裕はないが、それでも蟹は食べないという事を知った。 蟹は蜘蛛に似ているので、彼等にとっては食べられないからである。 また海老も同様な理由から現地の人は食べられないので、私は漁業調査航海中、大いに海老と蟹を食べることが出来た。 しかし、現地で珍重されているイナゴの内蔵は食べる気にならなかった。 動物性の食品には、どんなものでもある程度の栄養素がある。 であれば、ヒトが何を食するのかは問題ではなくて、食品となる資源の種が持続できるか否かが問題なのである。
最近オーストラリアで制作された「ベーブ」という映画がアメリカやニュージーランドでも人気を拍しているが、これは、子豚が逃げる物語である。 人間の声で吹き替えられて、あたかも子豚がしゃべっている様に制作されているが、折しもこの三ヶ国での豚肉の消費が減少しているというのは、単なる偶然とは思えない。 英国では狂牛病の発生とともに、食生活に変化が見られている。 狂牛病の原因が牛の餌となった感染性の穀物にあるからである。
畜産には、危険が伴う。 家畜は集団で飼育されるので、感染性の要因が発生すれば直ちに伝染の危険がある。 その上、脂肪を減らし、肉を柔らかくし、生産を上げる為にホルモンの投与を行う方式が開発されたので、この結果人間と家畜の健康を害するような副作用がないように常時モニターを続けなくてはならない。 これに比較すると海産物は、汚染されていない海水の中で生産される。 従って、食物連鎖の中で感染する可能性が低い。
世界的に我々が将来直面する二大問題は、環境と過剰な人口増加である。 後者の問題には、食糧管理問題が伴ってくる。地球の表面積の70%が海洋であることを考えれば、そこから生産される食糧資源を無視することは出来ない。 しかし、我々はこの資源の管理を誤ってはならない。 過去の経験では、漁業も捕鯨もともに、誤った管理の歴史があることは疑いなき事実である。 アメリカとオーストラリアを含む過去の捕鯨大国は持続的な資源管理について失敗している。 その結果、シロナガス鯨のような大型鯨類が絶滅の危機に瀕している。 最新のシロナガスの資源量は200から1,100であるとされている。(長崎、1989) もしもシロナガスの資源がこのレンジの低い方にあるとしたら、この鯨類資源の回復を、ただ手をこまねいて待つというのでは十分ではない。 資源は、さわらずに置けば自然に回復するものであるという考え方では、枯渇した資源を救うことにはならない。 海洋資源についての我々の経験から、ある種が増殖するには、他の種が占有していたニッチェが空いたので、そこを取り込むという現象がある。 シロナガスが回復しないのは、同じ種を索餌している他の競争相手の生物が増加しているので、シロナガスが比較的に索餌が困難であるということは大いにあり得る。 どの種とどの種がこのような競合関係にあり、その中でどの種が全体のバランスを崩すような増加をしているのであるかを確かめる共同努力が必要である。 シロナガス種が保存される為には、どのような処置が必要であるかを確かめる必要がある。 処置には他の二三の種の間引きも必要であるかも知れない。 また、シロナガスが生息している海域でのオキアミの直接的捕獲は避ける必要があるかも知れない。 もしも、ある種の間引きが必要であると判断された場合に、間引きを野放しにしてはならない。 そうすれば、また、生態系の混乱をさらに深刻化するであろう。 間引きによって、種が有効利用されるのであれば、ガイドラインを決め、それを守り、独立した科学者のチームがそれが守られているかをモニターして間引きされなくてはならない。
オーストラリアでは、カンガルーの中のある種は絶滅に瀕しているが、一方増加して、他の生物種に脅威を与えているものもある。 科学調査の結果、ある種のカンガルーは羊と競合し、羊の索餌域での餌を限界を越えるまでに食べつくしている。 養羊業者は、毎年ある種のカンガルーを射殺する許可を得ている。 カンガルーの種でも枯渇しているものがあり、必要以上に豊富な種を間引きすることは、枯渇した種にとっても羊にとっても恩恵を与える。 羊は飼育の地域の柵を飛び越えて外の地域の餌を食べることは出来ないからである。 間引きされたカンガルーは今では、都市のレストランなどで、人間の食用に供され、健康的なグルメ食品となっている。 クインズランド大学の動物学部のゴードン・グリッグ教授は、草牧地の利用ではカンガルーの方が羊より効率が高いと言っている。 彼は牧草が良く育たない地域では、羊よりもカンガルーを食用に飼育する方が理にかなっていると提案している。 この提案には、やはり情緒的な反対者が出ている。 カンガルーは美しいし、毛皮も素敵な哺乳類だというのが理由である。 しかし、情緒による論は、事実と現実によって、矯正されなければならない。 現実は、「どんな種であっても、いかに可愛く、美しく、毛皮が素敵であろうと、鱗があろうと、もしも劇的に増加した場合には、同じ棲息域内で競合する他の生物の餌と場所を奪うのである。」
過酷であるが、自然の法則は、より強靱な生物が生き延びることを可能としている。 その結果、ある種の生物が絶滅していくこともある。 この現実は地球上の管理者としての人間にとってのジレンマである。 「もしも、自然のバランスが人間の活動によって崩されたのであれば、それを矯正するのも人間の責任ではないのか?」
<日本捕鯨協会・日本小型捕鯨協会発行「勇魚」(ISANA)平成8年(1996年)5月、NO.14掲載>